気まぐれ日記 2014年3月

2014年2月はここ

3月1日(土)「ホントに外国生まれ?・・・の風さん」
 ときどき日本人より日本人みたいな外国人に遭遇する。
 今日は、新聞の中で発見した。ネルケ無方という名前のドイツ生まれのお坊さん(1968年生まれ)。
 エッセイの内容は、日本に仏教がなくなるとはどういうことか、という仮定の話から始まって、日本に仏教がなくなったと実感するのは、お寺やお坊さんがいなくなることではなく、お墓や仏壇がなくなったときだということを教えている。
 そして、どうも現代のお坊さんは職業的だということを言っていて、自身は檀家がゼロ(つまり安定的に収入が得られない)の寺の住職をしている。 
 さて、仏教とは何か、次回へ続くで終わっている。
 さすが禅宗(この人は曹洞宗)のお坊さんだ。この問答は面白い。
 韓国旅行中のワイフからLINEで報告があった。500段も歩いて済州島のハルラ山に登ったという。私と一緒なら50段も登らない人だ。
 最近騒々しい中国人観光客がたくさん来ているので、階段がもう一つ増設されたそうだ。

3月2日(日)「(続)ホントに外国生まれ?・・・の風さん」
 インターネット上の仮想通貨「ビットコイン」を扱うマウントゴックスの代表マルク・カルプレスが、民事再生法適用申請したとして謝罪していた。テレビを観ない風さんはYou Tubeで確認しただけだが、この人、フランス人らしいが、外国人っぽくない。
 28歳とのことだが、来日以前の経歴が不明。
 日本語で謝罪していた姿に違和感をおぼえなかった、というか、詐欺師とは思えない。誇大妄想狂? うーん、かも。
 昨夜はひどい雨だったが、今日はどんよりした曇り。こういう日は気分は憂鬱だ。
 昨日からテキストの校正(共著者の分)をやっているが、なかなか終わらない。
 そうこうしているうちに、腰が痛くなってきた。
 たとえ痛くてもベッドに入って寝るわけにはいかない、終わるまで。
 夕方、ワイフが無事帰国した。昨日の「独立運動記念日」も何とか無事で、よかったよかった。

3月3日(月)「(続々)ホントに外国生まれ?・・・の風さん」
 明け方書斎の机に突っ伏して寝てしまったこともあったが、とにかく校正は終わらず、腰痛はさらに悪化してきたので(当然か)、有休にすることに……。
 昨日の新聞にドナルド・キーンさんの連載エッセイが出ていた。松尾芭蕉の奥の細道の旅の話で、現在の福島県に入ってからのエピソードだった。原発事故もからめて、福島の美しい自然を讃えている。
 私も一昨年、そのへんを舞台にした短編小説を書いた。一度現地に行ってみたいと思っているが、東日本大震災ですっかり寂れてしまっている可能性が高い。ま、退社したらいつか行けるだろう。
 ドナルド・キーンさんの文章は内容も含めて感動的だ。
 91歳でこれだけの仕事ができるのは素晴らしいことだ。目標にしたいが、早くも下降線に入っている私は自信を失っている。
 そういえば、以前のエッセイで、なぜ広島だけでなく長崎にまで原爆を落としたのか、という文章があった。私(技術者)の仮説は、技術の違いによる実験的な意味があったのではないか、ということだ。広島はウラン235、長崎はプルトニウム239である。
 真珠湾攻撃は不意打ちだが、軍港と軍艦を狙った。広島も長崎も無差別大量殺人だ。東京大空襲の延長線上であり、戦意を喪失させるのが目的だというのは詭弁だ。人道的罪を問われてしかるべき。
 校正が終了したのは午後10時過ぎだった。疲れた。

3月4日(火)「まじめな話・・・の風さん」
 昨夜、何とかテキスト原稿の校正を終えた。意外と大変な仕事だった。とにかく時間が限られているので、必死だった。これで終わったわけではないが、前進したことは間違いない。
 今日から愛工大大学院での非常勤講義のシラバス入力が始まる。昨年までは大野先生や田村先生のご指導に従ってシラバスを作成していればよかった。しかし、4月からの講義は、ほとんど私一人の仕事になるので、責任は重い。教える内容はこれまで通りでも、教え方に工夫が必要だと思っている。いかに大学院生に学習効果を出させるか、だ。知識の提供でなく、大学院生らしい学び方の習得を教えたい。
 午後、名古屋へ出張した。4月から研究員をやらせてもらう慶應大学大学院の先生と、相談するためだった。話の中心は、会社の新しい研修に対するアドバイスを頂戴することで、私個人の話はおまけ。
 そのおまけの話は、なかなか興味深いテーマだったが、安請け合いしてはいけない重要なものだった。真剣にやるならかなりのパワーが必要である。なぜなら、私自身が非力なのと、そのテーマ自身がまだ開発途上にあるからだった。
 帰宅し、確定申告のために、書籍購入代を集計してみた。毎年そうだが、かなりの額である。

3月5日(水)「カウントダウンは続く・・・の風さん」
 朝から雨である。少し早めに家を出発したが、やはり道路は混んでいた。いつもよりだいぶ時間がかかって、定時には間に合わなかった。
 月曜日に予定していて、私の突発有休のために流してしまった会議は、何とか予定の9時に始めることができた。
 来週の秋田出張の事前打ち合わせである。
 3人で行くのだが、課題を共有化し、あとは雑多なことを申し合わせた。
 私は同級生と会えるのが楽しみだが、その前にしっかり仕事は達成しなければならない。
 今日も自宅の書斎と同様に会社でも身辺整理(思い切って捨てること、ただし諦めが悪いので少しずつ)をし、読みかけの本を頑張って読んだ。
 帰るときには雨は止んでいたが、風が強くなってきた。
 退社まで1ヶ月を切ってカウントダウンは続く。

3月6日(木)「ルンビニ幼稚園・・・の風さん」
 来週秋田へ行ったら、翌日、1歳から小2まで過ごした鷹巣へ行ってみようと思った。
 最初に家族で(母も一緒だった)訪れたのはいつだろう? 1999年以前である。そのとき、風さんが通ったルンビニ幼稚園を偶然発見したのだ。卒園して40年近い年月が経過していたのに、まだあった。私とワイフだけが車を降りて、敷地内に入り、私は居合わせた先生に「ここの卒園生です」と断って、中に入れてもらった。お寺の堂内のような作りはほとんど当時のままだった。
 次に訪れたのは2002年8月だったが(母は同行せず)、鷹巣は車でさっと通過しただけだった。
 そこへもう一度行ってやろうと、ネット検索をかけたら、意外なことになっていた。
 我が思い出のルンビニ幼稚園は、2001年3月28日で、49年の歴史に幕をおろしていた。2度目に通過したときは、もう閉園した後だった。そして、さらに驚くべきことは、1952年の開園から、オーナーはずっと一緒で、閉園時は98歳だったという。
 のべ卒園生は2400人とのことで、私もその中の一人だった。
 名前の由来、ルンビニとは、釈尊の誕生したインド(実際はネパール)の土地の名前とのこと。
 閉園から既に13年である。オーナーはもとより、建物ももうないに違いない。鷹巣まで足を伸ばす動機が失われた。
 鷹巣町花園町にルンビニ幼稚園はあった。風さんの通った幼稚園である。

3月7日(金)「てんこ盛りのやること山崩し・・・の風さん」
 あまりにもやることが多く、優先順位をつけても精神的に楽にならないことが分かっているので、とにかく山崩し法を選択することにし、今日は突発有休。
 9時開店と同時に農協に行き、頼んであった抵当権抹消手続きのための書類を受け取った。すぐ勤務先がある総合病院へ向かい、駐車場に着いたのが10時。初診にならない期限内の再診を受けるべく、予約をしたら12時からになってしまった。
 それまでにできることはやっておこうと、キャメロンで郵便局へ行き、咸臨丸子孫の会の年会費を振込み。続いて、デンソー本社に入り(有休なので勤務実績エラーになるが)、来週の秋田出張のための航空券を受け取り。ついでに社内にあるATMで通帳記入し、残額を確認(低空飛行だが墜落しないようにコントロールが続く)。
 再び病人に戻って、売店でパンとコーヒーを買って、早めに昼食。
 診療科に戻り、12時過ぎに名前を呼ばれた。診察を受け、目的の薬を処方してもらった。
 支払いを済ませ、薬も受け取って、病院を出発。
 家電量販店で書斎の蛍光管(40Wと30W)を購入。某図書館へ寄って、なくしたと思って再発行してもらったら出てきた、古い貸出カードを返却。続けて、キャメロンに満タン給油して帰宅。
 午後3時だった。
 やっと気持ちが少し軽くなった。やっぱり休んでよかった。
 これから確定申告の準備だ。

3月8日(土)「終日、確定申告の準備・・・の風さん」
 会社も同じだが、毎日少しずつ身辺整理を続けている。一度にやりきるのが無理なため、とても手が出せなかった。そこで、本当に少しずつやることにした。一日一善方式だ。具体的には、書斎の場合、大きな封筒に入れっぱなしのモノを、とにかく封筒から出す。不要不急と思われたら一部分だけでも捨てる。残りは、裸のまま書棚に並べる。これを毎日繰り返している。
 今日は終日確定申告の準備の続きだ。例年と違い、年の途中で定年退職というのが起きているで、提出する書類と数字が多い。
 既に会社の説明会で教えてもらっている内容のはずだが、見事に忘れている。だから、勉強と雑多な書類の確認から始まっている。
 それだけで、1日が終わってしまった。つまり、確定申告の書類はまだ1枚も書けていない。
 最終締め切りは17日(月)である。何とか早めに終えないと、後がつかえている。

3月9日(日)「テキストとシラバスを作成・・・の風さん」
 確定申告のために帰省していた長男がお昼で帰った。彼の場合、帰省しなくても、京都で書類を作成して郵送することも可能だが、それだけの余裕はないのだ。
 駅まで送ったついでに、体育館に寄って友人の生け花作品を鑑賞してきた。春らしい作品で、さらに情感のある構成で感動した。
 今日は朝から確定申告を中断して、テキストの付録作りを始めている。下原稿はできているので、分量を調整する仕事だが、ばかに時間がかかる。こういう状態が続くと、やはりボケているのかと思ってしまう。明日の朝に届いているのが条件だ。
 夕方やっとできて、メール送信した。
 続けて、4月から始まる非常勤講義2件のシラバス作成に取り掛かった。これも、田村先生がだいたい作ってくださっていたので、自分のパートを見直すのが仕事だが、いくらか迷いも生じた。大学院生向けの講義なので、できるだけ知識詰め込み方式でなく、自学自習というか、要は自分で勉強できるように促したいと思っていて、それをどうシラバスや実際の講義に反映するかである。
 とりあえずシラバスに、その点を強調し、見直し案を田村先生へ送った。
 夜になって、再び確定申告の準備の続きに取り組んだ。
 まだ先は長いので、ほどほどで中断。
 またストレスがたまってきた。

3月10日(月)「とうとうこの日がやってきた・・・の風さん」
 今日は長年利用していた、フリーの goo mail が終了する日。だいぶ以前から準備してきたので、もうほとんどどこからも受信することはなくなっていた。保存することもせず消滅させた。何でも永遠はないことの一例だ。
 社内メールを使って、一部の知人・友人たちに退社予告メールを送った。最終出社日に送られてくることが多いが、私の場合、静かに去って行くことと合わせて、返信を受け取れる時間を残すことにしたのだ。案の定、いくつか心温まる返信があり、感謝の念が高まった。来週も第二弾を送ろうと思う。
 午後になって2時前後、突然降雪があった。雨交じりとか濡れ雪といった中途半端なものでなく、しっかりした雪片が舞い落ちていた。明後日秋田へ出張するので、不安になった。すると、先週、プライベートで秋田へ行ってきた同僚から「秋田はまだまだ雪がしっかり降っていましたよ」という報告があった。ついでに、見学した佐竹資料館でボランティアの人に私が来るかもしれないと伝えたという。確かに行くつもりだ。
 社内報が配られた。入社前からある伝統的な冊子で、私は好感を抱いて入社していた。しかし、巻末にある「今月の定年退社」の顔写真に自分が載ることは決してない、あってはならない(作家として独立するため中途退社する決意だったから)と思っていた。
 しかし、年月を経るにしたがい、だんだんその危機感(笑)が募ってきた。それは毎年春の落ち込みの桜開花と双璧になっていた。
 そして、ついにその日が来てしまった。社内報、今月号の巻末に、私の顔写真が掲載されていた。
 帰宅し、確定申告のため、夜遅くまで、昨年の経費データをエクセルに入力し続けた。

3月11日(火)「あれから3年・・・の風さん」
 出社してすぐ、明日訪問する国際教養大学へ、予定通りうかがうことをメールした。
 会議に出席し、バタバタと仕事を片付け、昼食後、急きょ午後休にして退社した。先週の金曜日と同じで、やることがあまりにも多過ぎて、優先順位関係なく、手当たり次第に処置していかないと、重要で緊急で難度の高い仕事はなかなか手がつかない。たとえて言うなら、幕の内弁当の中に一つだけ苦手な食べ物が入っていて、他の食べ物を食べていく中で、それを口へ放り込んでしまうようなものだ。え? 自分なら、最初から除外しておいて食べないって? だめだめ。その食べ物は他は食べなくても絶対に食べなければいけないというのが大前提である。
 今日は黙とうはなかったが、東日本大震災から3年目の日である。
 個人的には定年退職・退社・作家として独立への大きな転換期になった。
 一方、政府がぼやぼやしている間に、景気回復のための公共事業が起き、東京五輪まで決定したために、復興はますます遅れている。リーマンショックで建築・土建関係の技能者の多くが転職していたのだ。震災復興は彼らを元に戻すチャンスでもあった。しかし、それすら効果的な手が打たれることなく今日まで来てしまった。再生可能エネルギーへの転換促進もしかり。
 経済力が戻らないうちに、国際情勢は激しく変化していき、日本の立場は弱くなる一方である。
 明日は、その辺も前提にした話が先生方からうかがえそうである。

3月12日(水)「最高のミニ同級会・・・の風さん」
 秋田へ行けるので、うれしくて5時起床……、いや、8時発のフライトなので仕方ない。
 買えなかったお土産を買っても、7時前に出発ロビーに着いた。Wi−FiにiPadminiをつないでひと仕事しても、まだコーヒーを飲む時間があった。
 同僚と3人で無事秋田に着いた。秋田は先週の情報通り、雪に埋もれていた。
 タクシーで国際教養大学に向かい、午前中に図書館長と面会した。まるでビジネススクールの先生と話しているような、刺激の多い1時間半だった。5冊本を持参し、図書館への寄贈もお願いしてきた。
 カレッジカフェで昼食を摂り、午後、学生部長と面会した。多忙な中の貴重な時間だったらしく、我々との話が終わるとすぐ、学生がドアの外へやってきた。
 空港で同僚らと別れ、リムジンバスで秋田駅へ向かった。昨年の11月のシーンの再現だが、あのときは雪はなかった。
 定宿になったホテルにチェックインし、Wi−FiにiPadminiをつなぐなどして、ミニ同級会までゆっくりした。
 飲み会の会場も前回と同じだったので、悠々と向かうことができた。当然、到着したのは一番だった。最も近いところにいたのだから。
 実に賑やかで楽しい飲み会になった。前回より2人も多かったからだ。高校の同窓会メンバーが私を含めて6人。内1人がたまたま秋田へ来ていた大学の同窓生を1人同伴してきた。そして、私の中学の同級生が1人。全部で8人。全員還暦だ。
 10時過ぎに店を追い出されたが、4人で川反へ2次会に向かった。
 ジャズが流れる感じの良い店だった。見ればJBLの豪華なスピーカである。生演奏もときどきやるらしい。ピアノとドラムがあった。酔っぱらった同級生がドラムをたたき出したが、千鳥足のサウンドだった。私はマッカランをロックで飲みながら、高校時代の思い出に浸っていた。なんて幸せなんだろう。

3月13日(木)「ここ半年で4回目の秋田の旅が終わり・・・の風さん」
 ゆっくり起床し、シャワーを浴びて、出発の準備ものんびりとやった。
 チェックアウト後、駅前のデパートに寄って、ホワイトデーの買い物をした。こういう時しか時間がないのだ。
 荷物を駅のコインロッカーに預け、朝食をとってなかったので牛丼でブランチにし、それから佐竹史料館に向かった。今日は観光である。秋田県人だが。
 小雨だが傘が必要だった。足元の雪が融けてシャーベット状態である。ハーフブーツを履いてきて助かった。
 佐竹史料館へ行くと、展示品の入れ替えで土曜日まで休館だった。
 ガッカリしながらドアの前に立ったら、自動ドアが開いた。
 史料館の人だろうか。作業はほとんど終わりかけているそうで、流れで、そのまま中へ入れてくれた。
 先週、会社の同僚が会ったというボランティアの人はいなかった。
 歴代の藩主の書画をゆっくり眺めることができた。どの作品も個性的で芸術の香りがする。才能に恵まれながら、好き勝手な行動ができないお殿様の気持ちが何となく分かる気がした。
 続いて、千秋美術館へ向かった。数は少ないが秋田蘭画を見たいと思っていた。小田野直武と佐竹曙山公である。
 たまたま企画展をやっていた。風景、動物、人間の3部構成で、日本画と西洋画を対比して展示してあった。
 面白い企画だが、それより一つ一つの作品のレベルの高さに圧倒された。
 それから短いながら情緒あふれる解説の文章だ。
 昨夜のミニ同級会の感動が、私の感性を研ぎ澄ませてくれていたに違いない。
 高価だったが、美術館のコレクションの画集を購入してしまった。
 だんだん時間がなくなってきたが、新しい県立美術館まで足を伸ばした。安藤忠雄の設計である。
 例によってコンクリートの建造物を遠くから眺めたが、ちょっとだけと思って中へ入った。
 シルクロード展をやっていたが、私は2階の常設、藤田嗣治の作品を観たくなった。
 安藤忠雄らしい空間の切り方をした階段をのぼった。
 常設展示場所に入ると、突然目の前にとてつもない大きさの壁画が飛び込んできた。秋田の祭の大パノラマだ。
 絵にも目が吸い寄せられた。引っ越しを繰り返すたびに模様替えされるアトリエの絵は、意外にも日本的で面白い。藤田の名を高めた淡い色彩の裸婦(ほとんどデッサン)の美しさにも目が釘付けになる。
 貧乏なのに、ここでも画集を購入し、秋田駅へ急いだ。
 喉が渇いたので、駅ビル内でミックスソフトクリームを食べてから、コインロッカーから荷物を出してバス停へ向かった。
 いつものように秋田空港で大量に土産物を買った。
 手荷物検査場では、買った土産物を忘れることはなかった(ここ半年で3回のうち2回もベンチに置き忘れるというボケをやっていた)。
 秋田へ来るときは往路か復路どちらかで悪天候である。今回は復路で、強風が吹き荒れていた。しかし、機長らが見事な操縦を見せてくれて、無事セントレアに着いた。

3月14日(金)「名古屋でひと仕事・・・の風さん」
 昨夜遅くまで確定申告の詰めをやった。最後の懸案事項について、ワイフとパソコン画面を見詰めた。
 当初、例年通り、若干の還付金があった。退職にともなう年金収入などを参入したら、数万円の納税になった。
 この時点で私の還付金は消えてしまったわけだが、落胆はまだ小さかった。
 昨夜、最後の一時所得を算入してみたら、……なにもコンピュータに計算させるまでもないのだが、数十万円の納税になってしまった。逃れようのない現実。……というより、節税対策を省いた報いだった。
 振り込め詐欺にやられたわけじゃないし、お国のためだから仕方ないね。涙をためた目で夫婦で納得するしかなかった。
 書類は完璧に仕上げた。
 その書類を投函して、今朝は名古屋へ向かった。
 午前中は自由ヶ丘キャンパスに田村先生を訪ね、国際教養大学で感じたことを含め、企業における教育についてご意見をうかがった。4月からの講義についても相談し、秋田土産を渡したことは言うまでもない。
 名駅地下でラーメンを食べてから、JMAの生産技術マネジメント研究会の最終報告会に出席した。
 元運営委員としてコメントを求められ、例によって、和やかな雰囲気をかき乱した。これは悪い意味ではない。甘い意見に流されそうになったムードを少し引き締める効果があったと思う。
 懇親会と続く二次会にも出席し、デンソーの後輩を大いに宣伝した(つもり)。
 4月以降はますます(私から)デンソーカラーが薄れていくだろう。

3月15日(土)「STAP細胞論・・・の風さん」
 3回連載となるエッセイの締め切りが目前なので、それに取り組んだ。
 原稿料から考えれば、ちゃちゃっと仕上げなければならない仕事だろう。
 しかし、それは無理。雑感のようなエッセイとは違う。着想が決まっても、正確なデータに基づく内容にしなければならない。そういうジャンルを専門にしてしまったので、時間がかかるのはいたしかたない。
 とはいえ、無制限に時間をかけていいわけではない。
 執筆効率が4月以降ますます重要となる。
 ……と演説をぶっていても、原稿はできなかった。
 STAP細胞の論文発表が、一転して攻撃されている。学術的に問題のある論文だったようだ。素人が分かるのはコピペしたとか画像を使い回したということぐらいだろう。多少、研究に携わった経験のある私から見れば、そんなことは本質ではなさそうだ。
 発表した内容そのものの論理展開に怪しいところがあるらしい。10名を超える(拠点を異なる)専門家が取り組んだ研究であり、小保方さんはそのリーダー役だったらしい(それ自体がどうも信じられなくなってきているが)。STAP細胞の研究は分業化され、ちょうどモノづくりと同じで、プロセスを経て完成する。あるプロセスを担当した専門家は、前工程のことは信じるしかない。後工程もしかり。山梨大学の先生は自身の担当部分については責任もって間違いないと宣言している。しかし、前工程がいい加減だとしたら、その担当部分が正しかったとしても、研究成果は無意味なものとなる。
 世の中はSTAP細胞の再現実験を試みている。ところが、論文通りにやろうとすると、途中のプロセスで、山梨大学の先生のような仕事が発生する。このプロセスに関しては先生は世界トップの技術をお持ちとのことで、もし誰も真似できないとすると、先生に依頼することになるだろう。堂々巡りになりかねない。
 倫理委員会は、研究内容そのものを査定しているわけではない。理研の仕事(もちろん研究がミッションだが)を倫理の視点で調査しているのだ。
 野依先生が怒っておられるのは、稚拙な論文作成能力ともう一つ、研究者にあるまじきプロモーション活動ではないかと私は想像している。

3月16日(日)「学友の新居訪問・・・の風さん」
 土日のどちらも完全オフ(事前に予定が入っていないという意味)ということがない。やはり忙しいのだろうか。
 午前中、キャメロンで灯油を買いに出かけた。外置きタンクが空にならない前に買えるのは今日しかなかった。
 快晴で気分のよい外出だったが、道路がクルマで混んでいる。観光地に住んでいるので、シーズンがやってくるとこうなる。もうその時期か、と思ったわけだが、4月完全独立までに、トップギヤに入っているという目標は達成できそうもない。
 昼食後、電車で出かけた。つい先日チャージしたばかりのマナカカードがもう心細くなっている。50代の10年間で半分の5年間は学生をやっていたから、名古屋までの電車は学生定期で気楽だった。毎日利用したわけではないが、利用回数から計算してみるとだいたい半額で利用していたことになる。名古屋まで行って地下鉄も利用したとすると、ほぼ2日で5千円が消える。そこへいくと東京の電車や地下鉄は非常に安い。
 今日はJRに乗り継いで岐阜まで行ってきた。
 ビジネススクールの学友のお洒落な新居での食事会に、図々しくも参加させてもらったのだ。
 家族含めて10名以上が参加して、賑やかだった。かつて私は課長になったとき、自宅に課員を家族まるごと呼んでバーベキューをしたが、あの頃も小さな子供たちもいて、賑やかだった。若いということは素晴らしい。
 ビールやシャンペンやワインを飲みながら、心のこもった手作りの料理を楽しんだ。
 帰りはJRを利用せず、名鉄を乗り継いで帰宅した。
 あとでこの日の私の写真がフェイスブックにアップされた。

3月17日(月)「大日方先生の最終講義を聴講・・・の風さん」
 昨夜というか今朝の2時から5時にかけてエッセイ原稿を仕上げ、画像データと一緒にメール添付して送付した。
 今朝が締め切りだったので、ギリギリセーフというわけだ。
 会社員をやりながらの作家生活とは(学生生活も同じだったが)、こんな調子だった。よく体がもったものだ。おそらくもう限界にきているのだろう。
 ということで、2時間ほどの仮眠で出社。
 午前中、相変わらずの身辺整理などに追われ、昼食後、速攻で帰宅。
 午後は有休である。
 電車で名古屋大学へ向かった。
 今日は、東北大学大学院時代からお世話になっている、大日方五郎先生の最終講義がある。
 最終講義は、これからの技術動向として統合技術がますます重要になり、システム化されればされるほど、多くの技術が必要になるが、機械工学は絶対に外せないという内容で、機械工学出身の私としては非常に嬉しく、私としても世の中へ伝えていくべきメッセージだと思った。
 会社からも知人が来てくれたが、懇親会の会場では近くの岐阜大学、三重大学の旧知の先生や、秋田からも秋田大学や産業技術センターの先生がみえていて、有意義な交流をすることができた。
 また、先生の研究室出身の若い人が、電動車椅子を持ち込んでPRしていたが、その斬新なスタイルとオムニホイールやアップル感覚のコントローラー技術に感動した。
 先生は次年度から中部大学へ移られるが、副学長の小野先生もいらっしゃるところなので、そのうち遊びに行きたい。

3月18日(火)「ケースアワード2013受賞・・・の風さん」
 退社が近付いているというのに、やることがたくさん残っている。すべてきれいに片付けて、長年精根込めて働いたこの企業を完全に卒業できるのだろうか。
 超多忙の合間に、退社お知らせメールも少しずつ送っている。
 かと思えば、昼休みに会社を抜け出して郵便局へ行き、これも長年愛用しているステラナビゲータの最新バージョンを注文したりしている。
 会社で優先順位のつけ方を学んだくせに、実際の行動は、モチベーションの高いものや、やれるものから積み木崩し的に取り組んでいるのだ。
 帰宅して、実に久しぶりに名商大のメールシステムをチェックしたら、重要なメールが数通入っていた。
 昨年9月に卒業したのだが、卒業研究として提出していたケースが、ケースアワード2013に選ばれていたのだ。自分の後始末に忙殺されていて、すっかり忘れていた。
 受賞者は21日の卒業式の日に表彰されるので、出席可否を連絡してほしいということだった。17日(月)までに。つまり昨日だ。
 ワイフに報告したが、同席できないというので(愛工大の卒業式には出てくれたが)、この超多忙の中、スケジュール調整も大変だったので、欠席すると返信した。
 思えば、技研センターへ出向した2011年からの足かけ4年間で、受賞は5件になった。人生最後の輝きで終わらないようにしなければ。

3月19日(水)「ボケていても多忙・・・の風さん」
 何となく昨日退社時、スリットを忘れたような気がしていたが、今日、出社して確認してみると、……また忘れていた。ルーチン的なことまで頻繁に忘れてしまうのだから、私のボケは重症かもしれない。
 午前中の会議で、最後のお務めのつもりで議事録作成係をした。
 続けて、自分の開催した会議をおこなった。秋田の国際教養大学出張結果まとめである。
 名商大へも電話して、21日の欠席連絡が遅れたことを詫びた。
 今日も何となく疲れ果てて帰宅したが、気を取り直して、1月のマシナリー協会の講演録の原稿校正に着手した。これは、事務局の手になる原稿だが、知り合いが書いてくれたものなので、真剣に見直しをしようと思う。かなりの分量があるので、1週間はかかるだろう。
 23日(日)に高輪台のギャラリーオキュルスでオーナーのお父さんに関する本の出版記念パーティーがあるが、出席できないので、バラの花を送る手配をした。

3月20日(木)「祝吉川英治文学賞、東野圭吾氏どの・・・の風さん」
 心身の限界を感じて会社員から完全卒業するのだが、手遅れかもしれませんね、と同僚から言われたことがある。すぐ死んじゃうという意味ではない。もともとやりたかった作家業に思い切り専念しようと思っても、既に心身のパワーがそれを許さなくなっているかもしれないという警告だ。
 あまり話題にしたくないことの筆頭は、作家東野圭吾氏の活躍である。
 デンソーの生産技術部に1985年前後は二人とも在籍していた。しかし、その後も在籍し続けた男(私)と早々と独立した男(東野氏)の人生は明らかに違った展開をした。
 かつて私は、新人賞受賞では彼に後れを取ったが、直木賞は先に取ると力強く言っていた。それが、東野氏が直木賞を受賞するや、かなりのショックを受け、宣言する言葉は、直木賞を受賞した後は、吉川英治文学賞は自分が先に取る、と言い換えたものだった。
 ところが、である。
 東野氏は、私がモタモタしている間に、吉川英治文学賞を受賞したのである。大衆文学の最高峰である。実績は十分かもしれないが、彼は何といってもまだ若い。まだまだ登りつめていくに違いない。
 退社してからの私の目標はまた高く重くなってしまった。

3月21日(金)「日常風景に目が行った日・・・の風さん」
 だんだん仕事の先送りができなくなってきた。つまり、会社での時間がもうすぐなくなってしまうのだ。会社ですべきことは早く終えなければならない。
 途中のコンビニでおにぎりを2個買って出社した。今日から食堂の利用料金が給与天引きでなるので、都度現金払いでなく、ダイエットを兼ねたおにぎりにしたのだ。世の中は春分の日で祭日なので、道路が空いている。もうすぐ国民のカレンダーをちゃんと意識できる日がやってくる。
 身辺整理中心の1日を終えて退社した。
 研修所を出発してまもなく、交差点で信号待ちをしているとき、面白い光景を見た。女性が犬の散歩をしていたのだが、犬がしゃがむと同時にレジ袋を下にあてがった。すると、犬はちゃんとその袋の中に物体を落としたのである。飼い主も賢いが犬も賢い。思わず笑ってしまった。
 キャメロンに給油して帰宅した。こういった毎週の給油もまもなくしなくなる。

3月22日(土)「ペースダウン・・・の風さん」
 最近は仕事のペースを落としている。その代わり、徹底したやり方はせず、ある程度のところで妥協することにしている。これは退社後の変革の準備である。
 したがって、昨夜も早めに寝たので、今日は寝不足ではない。
 今年はまだ花粉症が出てなかった。老化とともに体質が変化して、花粉症が消えてくれないかと願っていたが、今日は途中からちょっと鼻炎気味になった。
 依頼してあったバラがオキュルスに届けられたというメール連絡があった。便利な世の中だ。
 昨日は名商大の卒業式だった。ケースアワードの受賞セレモニーがあったのだが、私はパスした。例によってフェイスブックで卒業の様子が少し伝わってきたが、あまり大騒ぎしていないようだ。
 今夜も早めに就寝した。

3月23日(日)「文章サークル再開・・・の風さん」
 1年と4ヶ月ぶりに文章サークルを開催した。前回は、母が亡くなる直前だった。ずいぶん昔のことのように思っていたが、あれから精神的に動揺することがずいぶんたくさん起きた。つらい月日だった。
 文章サークルを再開することで、以前の状態に復活し、さらに新たなスタートを切りたいと思った。
 今日のサークルは、この1年4ヶ月の私の精神状態を語ることでほとんど終わった。
 26日に制作中のテキストのPR講演会があるので、そのプレゼン資料と配布資料を準備した。今までなら、めいっぱい時間をかけて、凝りに凝った資料を作ってしまうのだが、ほどほどのところで妥協した。
 サークルの準備もそれなりにやったのだが、適度なこだわりで終えている。
 このペースが大事だと思った。

3月24日(月)「感謝されるよりこちらから感謝・・・の風さん」
 郵便局で手紙を投函してから出社するという、これまで何度も繰り返されたパターンだが、こういったこともやがてなくなるのだ。日常が変わる。あと1週間で、だ。
 午前中の部会で、最後になるかもしれない発表を1件やった。部内規定の説明とお願いである。老体の最後の会社の仕事としては、こんなものか。
 最後に社長から感謝状をいただいた。ひと言あいさつを、と促され、とても感謝されるようなことはしていない、むしろこちらからお礼の言葉を述べたい、と応えた。なぜなら、ここへ出向してきたのが2011年の年明けからで、すぐにお袋の心筋梗塞、続けて重度の認知症発覚、東日本大震災の発生と続いた。そして、昨年夏の前くらいまで、お袋の介護から遺品整理まで、せっせと福島へ通わせてもらったからだ。特別介護休暇はありがたかったが、生産技術部と兼務ということで業務負荷も軽くしてもらったし、名商大ビジネススクールで勉強していることに対しても、十分すぎるほどの配慮をしてもらったからだ。
 今日もおにぎり2個の昼食後、本社へ向かった。かつての部下何人かに会って、渡したいものを渡してきた。すべてを伝承することはとうてい無理だが、その穴埋めになるかもしれない。それよりも、重要書類をシュレッダーにかけるよりはるかに清々しい気持ちになれるのは事実だ。
 メモリアルパークにある社是の英訳を書き写した。もうここへも来ることはないだろう。

3月25日(火)「去って行く会社の厳しい経営環境・・・の風さん」
 今日は、4月から研究員をやらせてもらう慶應大学大学院SDMの先生が研修所に講義に来ていたが、受講はおろかご挨拶する余裕もなかった。
 午前中の会議では、日本のトップクラスの企業の社員が置かれている状況の一端に触れることができた。
 戦後の復興でしゃにむに仕事に励んでいるときとは違った、厳しい業務環境のことである。経済や暮らしがハイレベルになり、グローバルでスピードの時代に、トップを走り続ける会社の社員はどうあるべきか、ということだ。途方もないレベルが必要なのである。本人の努力と会社の支援と、それらだけではたしてやっていけるのか。そこが見えなくても、躊躇しているヒマもないのだ。
 たまたま自動車業界に身を置いているので、扱っている技術は俗に言うすり合わせ技術である。そして、自動車はかなりの大規模システムであり、「走る、曲がる、止まる」の基本機能にかかわる製部品は、簡単に他のものに置き換えることができない。その幸運をまだ満喫しているのに違いない。
 しかし、徐々に自動車がEVへ向かっていくと、名だたる電気メーカーで起きている大量の解雇が、自動車業界でも起こる可能性が高いのだ。
 先週に続いて、今日も貴重な資料を大量にシュレッダーにかけた。本当にこの会社と別れるのだという、実感ではなく覚悟というものが身内にみなぎってきた。

3月26日(水)「工場長のためのテキスト制作・・・の風さん」
 今日は有休で、8時前の電車で名古屋へ向かった。
 午前中はJMAで『工場長の教材』というテキスト制作委員会があった。短期間で分担して原稿を書き上げ、バラバラの体裁を初校ゲラになった今日、統一の議論をし、GW明けに完成してからの拡販活動について作戦を練った。
 午後は、場所を移動して、昨日が東京で明日は大阪なのだが、3日連続の講演を兼ねた一般説明会だった。
 今日は名古屋だったので、執筆陣の一人として、私も小一時間の講演をした。
 私が担当したのは、第3章「ものづくりプロセスの見方・考え方」で、全体の2割弱にあたる。ものづくりは、広範囲の知識と経験を必要とする、特殊な世界である。いつのまにか私も、そのようなことをある程度語れる人間になっていたのだ。
 大学時代に小説家としてデビューできなかったので、それまで学んできたエンジニアとして知識を生かしてデンソーに就職した。
 今、そのデンソーを卒業するにあたり、いきなり100%小説家というより、ものづくりの専門家としての活動も世の中のためになりそうである。

3月27日(木)「これが最後か・・・の風さん」
 久しぶりに旧部署に向かった。2004年以来通い慣れたルートである。ここを走ることももうほとんどないだろう。
 来客駐車場にキャメロンを止めて、正門で来客受付をしていたら、中から旧知の保安の人が出てきて「そんなことしなくても入れるでしょう?」とにこやかに言われ「いや、駄目なんですよ」と答えたが、実際、ゲートにネームプレートをかざすと下品な警告音が鳴り響いた。保安の人は、申し訳なさそうに、頭をかいていた。その態度に、こちらも気持ちがなごんで、堂々と来客バッジで中へ入った。
 ロビーで元部下と会い、小一時間も雑談したが、その間にも知り合いがやってきて、握手したりした。
 もうここへ来ることもないだろう。
 続いて、製作所へキャメロンを走らせた。絶好のドライブ日和だった。
 ここは、研修所の本社になっている。退職する人をねぎらうための昼食会が用意されていた。本社の昼食会はめんどうだったので欠席したが、ここでは作家活動の宣伝をしながら腹ごしらえをした。
 途中、郵便局で振込みをして、研修所に着いた。
 今日は最後の有料道路補助金申請をした。通勤距離がけっこうあったが、これでキャメロンの寿命が延びるだろう。もしかすると、自分にとって最後の愛車になるかもしれない。

3月28日(金)「危ないところだったちび助・・・の風さん」
 今日は午前有休である。
 毎年恒例の知人の陶芸展を堂々と見に行った。ただし、今年は会場が少し遠い。
 あいかわらずレベルの高いさまざまな作品が並んでいた。知人から今回の作品の作り方を聞いたが、ため息が出るほど手が込んでいる。やはり技術屋らしさなのだろうか。しかし、それだけ精根込めて作っているから、完成度も高く、感動を呼ぶのだ。知人の作品がもっと多くの人たちに見られといいな、と思う。
 今日は、階下の写真展も見てきた。作家の解説を聞いて、こちらも納得してしまった。実に面白い。深いテーマ性もある。
 それにしても、陶芸展も写真展も同じ会社の現役やOBが多いと聞いて、やはり自分が長年勤務した会社はとても良い会社だったのだとあらためて思った。
 途中で昼食用のおにぎりを2個買って研修所へ向かった。今日も絶好のドライブ日和である。
 最後の身辺整理に精を出したが、なかなかゴールにたどり着けない。
 そのうち、定時後の「パチパチ会」になってしまった。
 部長から身に余る紹介をしていただいた。月曜日は、感謝するのはこちらの方、という挨拶をしたが、今日は、こちらへ来てから自分自身の成果ばかり出して、職場への成果がほとんどなかった、ごめんなさい、という挨拶をした。
 1時間残業して、帰宅したら、ちび助が元気がない。
 聞くと、水仙をさした花瓶から水を飲んで中毒症状になったという。ヒガンバナ科の水仙には毒があり、茎の切り口から水の中へ毒が混入したのだそうだ。特に、我が家の裏の土地に生えている白い水仙は、その毒が強いという。
 すっかり吐き戻したちび助がふびんだった。しかし、私ならいちころで死んでいただろう。

3月29日(土)「モノづくりと経営をどうまとめるか・・・の風さん」
 1月の終わりごろに名古屋で講演した記録を、事務局(知人)に作成してもらっていた。後日、会報に掲載されるのだが、和算とビジネスの両方を題材にした、長い講演を忠実に再現してもらったので、その確認作業に手間取っていた。
 特にビジネスの関係は、並行して進めているテキスト制作の担当部分とも少し重なる。
 ビジネスにおける私のコアはモノづくりと経営だが、これをどのようにまとめていったらいいか(つまり最終的に本にしたいのだが)、考えながら作業をしているのである。
 あとで、あとでと言い続けていると、いつまでたっても暫定ゴールにもたどり着けない。
 講演なら講演録、テキスト制作なら担当分執筆分として、あるレベルに到達させておかねばならない。
 今日は終日講演録の再構成に取り組んで、やっと完成した。
 テキストの担当分は、1週間後にほぼ完成の見通しである。

3月30日(日)「当たった千円券でうどんを食べた・・・の風さん」
 金曜日は、午前有休とはいえ、公式の最終出社日だった。ということは、昨日から事実上、私はフリー(無職)になったことになる。
 このままいけば、自分を説明するとき、職業欄に「作家」と書く日がもうすぐ目の前だということだ。
 はたして堂々と書けるのか。すべてはビジネスとして成立するかどうかにかかっている(これまでの持ち出しばかりの作家業では、いくらフリーの身とはいえ、職業を作家とは書けない)。
 実は、クイズやキャンペーンに、余った年賀状を使って応募するのが趣味(楽しみ)である。
 少なくとも月に1通は出している。そして、年に1本くらいは当選する(ローカルな雑誌への応募なので)。
 地元のうどん屋の千円の利用券が当たっていて、今日が使用期限だった。それで、ワイフと昼飯を食べようと、小雨が降る中出かけた。初めて利用する店なので、探検の意味もある。
 表通りに面している小さなうどん屋だった。大衆食堂に近い。漫画本がたくさん置いてあり、夜は居酒屋になる。こぎたない店でもある(笑)。
 私は煮込みうどん、ワイフはカレーうどんを注文した。私の煮込みうどんは店の看板メニューで、うどんがかたいのが特徴だ。非常にうまかった。千円券にさらに千円札と硬貨を出して、勘定を済ませた。
 帰りに、和菓子屋に寄り、職場のためのお礼のお菓子を注文した。明日配るのだが、昼休みに研修所の裏庭で花見が計画されているので、それとの共同企画という意味ももたせている。

3月31日(月)「第二の人生が終了・・・の風さん」
 午前9時に和菓子屋で注文してあったイチゴ大福を46個受け取ってクーラーボックスに入れ、研修所に出社した(有休だが、まだまだ残務が多い)。雨は上がったが、風の強い日である。
 1時間ほど片付け仕事をしてから、花見になった。
 まだ五分咲きで強風だったから、屋内で弁当を食べることになるかと思ったが、桜に対する日本人のこだわりは相当なもののようだ。全員裏の芝生へ出て、ブルーシートに座り込んだ。
 花見弁当には小さな花見だんごも入っていたが(予想通り)、食後のイチゴ大福は強烈だったと思う。退職と花見を記念した共同企画。伝説(しばらく語り継がれる)になることを望んでいる。
 昼食後、生産技術部長(元部下)とメール交換してある意見が一致した。長年取り組んできた仕事に対する見解が一致したことで非常にうれしかった。
 その後、用事で本社に寄ったが、偶然職場の廊下で彼と会った。超多忙な彼とこんな日に遭遇できるとは、奇跡としか言いようがない。私の34年間の生産技術の仕事に対する天からのご褒美に違いない。
 急いで帰宅し、電車で名古屋へ向かった。
 名古屋でマナカカードにポイントをチャージしたら、400円分が今日で無効になるところだった。危ない、危ない(私の夢中で駆け足の人生を象徴している)。とはいえ、昨日と今日で、消費税アップ前にワイフと私のキャメロンにはしっかりガソリンを給油しておいたぞ。えっへん。
 ワイフと合流し、長女とフランス料理のレストランへ行った。彼女が企画した私の「お疲れ様会」だった。
 とんでもない散財をさせてしまったが、どうも私の性格の一部を受け継いでいるようだ。
 フルコースの料理は絶品だった。
 仙台港からフェリーに乗ってレビンと一緒に名古屋へやってきた。そして、1980年4月1日付で私は日本電装株式会社に入社した。1日でも早く作家として独立し、反対に名古屋港からフェリーに乗って両親の元へ帰るのが目標だった。
 レビンから何台も愛車は代わった。私は家庭をもち、帰るべき実家には、もう両親がいない。実家もなくなった。
 ちょうど丸34年が経過した今日で、私の長かった第二の人生は終わった。
 明日から、第三の人生が始まる。

2014年4月はここ(まだリンクしていません)

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